正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

30.張継先

三十代天師の諱は継先、字は嘉聞、又の字は道正、号は翛然子、二十七代天師の曾孫である。張敦信を祖とし、張処仁を父とする。兄の張紹先は儒林郎に任命され、徽州府歙県の知県であった。弟の張淵宗は道士であった。哲宗皇帝の元裕七年(1092)の十月二十日、張継先は龍虎山の蒙谷庵に生まれた。

生まれつき聡明であったが、五歳になっても言葉を話さなかった。ある日、鶏の鳴き声を聞いた途端に笑って詩賦を作り、翌日には青い蓮の花の上にゆったりと座っていたので、人々は真の仙人であると称えた。龍虎山の浴仙観に、その言い伝えが残る池がある。

哲宗皇帝の元符三年(1100)、二十九代天師に子が無かったため、張継先が跡継ぎとなり、九歳の時に教団を継いだ。成長するにつれて道法に通じるようになった。

崇寧二年(1103)、徽宗皇帝は澥州の鹽池が氾濫したとの報告を受け、道士の徐神翁に相談すると、「蛟の類の仕業ですから天師に相談すると良いでしょう。」と勧めたので、天師を召すことを決めた。

崇寧三年(1104)、帝は天師を宮廷に召し、「そなたは龍虎山に住んでいるそうだが、山中で龍や虎を見たことがあるか?」と問うと、天師は、「山で虎はよく見かけますが、本日はこちらで龍のお顔を拝しております。」と答えたので帝は喜んだ。天師が符を献上すると笑い、「霊はどこから来るのか?」と問うと、天師は、「神々がおられる所、霊は自ら従っております。」と答えた。道書を求めると、天師は親筆の『道徳経』を献上した。また、煉丹の術について問うと、天師は、「これは山の者がすることで、天下を治めるお方が嗜むことではございません。陛下が清静無為であれば、堯舜の治世に相当するでしょう。」と答えたので帝は喜んだ。天師が寝殿に滞在している間、宮廷の人々が競って扇に揮毫するよう求めて来たので、経典の言葉を書いてあげ、各々の扇に道の真理を含ませた。天師は扇の一つを取り、礼拝して「国祚を保ち鎮め、天と長く存る。」と書いて帝に献上した。帝は天師に宴席を賜い、龍虎山に帰らせた。

十二月、帝は再び天師を召し、「澥州の鹽池が氾濫して被害が出ているから、そなたに鎮めてもらいたい。」と言った。天師は鉄の符を作り、弟子の祝永裕と宦官らに持って行かせて決壊した場所に投げ込ませた。暫くして雷電が止め処なく打ち付け、蛟が水辺でバラバラになって死んでいた。帝は、「そなたが蛟を退治する時、何者を召したのか?ここで見ることはできるか?」と問うと、天師は、「私は関羽を召して用いました。お目にかけましょう。」と言って剣を執り、宮殿の左側に関羽をすぐさま召した。帝は驚いて崇寧銭を投げて与え、「そなたを崇寧真君に封じる!」と言った。関羽の封号の始まりである。天師は『地祇馘魔関元帥秘法』を作り、関羽の用い方について述べた。崇寧四年(1105)の三月、鹽池が元通りになったとの報告が届いた。

同年五月、帝は天師に座を賜い道と法の同異を問うと、天師は、「道はそもそも無為でありながら絶えず世界を動かしております。その姿を指して道と言い、その用い方を指して法と言います。道と法は紙の表と裏の面のようなもので、同じものとは言えません。しかし、一面が無くなれば、もう一面も無くなって消えてしまいますから、異なるものとも言えません。同異を論じること自体が無意味です。」と答えた。帝は、「その通りだ。もし道と法に同異があれば、他の面があることになる。」と言った。その後、天師は天心盪兇の諸々の雷法を帝に勧め、帝は親しく儀式に参加した。

ある日、天祥殿で寛いでいた帝が政治のあり方を天師に問うと、天師は、「旧法党の臣下の方々は皆、天下の期待を担っておられます。どうか陛下は彼らを寛大に扱うようお願いします。」と答えたので帝は驚き、「私に寛大さが欠けているとでも言うのか?」と問うと、天師は、「陛下が法を不偏不党に執行されることが、民の願いにかなう幸いでございます!」と答えた。

崇寧四年(1105)の五月、帝は天師に号を賜い「虚靖先生」として中散大夫に任命し、金を賜い、太上老君と祖天師の像を鋳造させた。また、かつて神宗皇帝が祖天師の印文「陽平治都功印」六字を崑玉に刻んで上清儲祥宮の法物庫に保管していたが、祖天師に畏れ多いと懸念し、天師に預けることにした。

天師は帝に何度も暇乞いをしたが、帝はこれを認めず天師に、「何か不足でもあるのか?」と問うと、天師は、「上清観が著しく老朽化しており、改築の必要があると思っているのですが、私の力ではどうにもなりません。」と答えた。帝は臣下に命じ、龍虎山を測量して上清観を改築させ、田地を賜い道士たちの食に供した。また、龍虎山の北側に庵を建てて「靖通庵」の親筆の額を賜い、亭を名付けて「翛然亭」とし、天師が座して修練できる場所とした。祖天師が雲錦山で修練していた時、丹の鼎の周りを青龍・白虎が取り囲んでいた言い伝えに基づいて降祥堂と濯鼎池を作り、霊宝観・雲錦観・真懿観の三道観を建て、祖天師の祠を「演法観」として改築した。以後、張氏が龍虎山を継ぎ、法籙が伝授された者を道士とすることが国家の制度として定められた。さらに、都の東側に下院を建てて額を賜い「崇道院」とし、帝に召された時の天師の居所とした。

七月、天師は都に道壇を建てて経籙を伝授し、道法を行い述べること誠に素晴らしく、雲集した参詣者の皆が道を会得した。天師が帝に暇乞いをしたので、帝は一通り引き留めたうえで認めて金や絹を贈ったが受け取らなかった。そこで、臣下に命じて都の門まで送ることにした。

崇寧四年(1105)、帝は再び天師を召した。天師が斎醮を宮廷内で営むと赤馬・紅羊の凶兆が現れたため、徳を修めるよう帝に勧めた。

十二月、天師は龍虎山に帰った。帝は賞賜を天師の親族各々の位に応じて送り、祖母の陳氏・馮氏・妹の張葆真は道士として道観に住むこととし、兄の張紹先を仮将士郎に採り立てて恩賜を厚く贈った。天師は『謝官職表』を作って帝の恩に感謝を表した。当時、道を学ぶ者は全国から数十から数百人にも及んだ。

大観元年(1107)、帝は使者を派遣して龍虎山で斎醮を営むよう命じた後、天師を宮廷に召して徐神翁と同居させた。大観二年(1108)の四月のある日、徐神翁が、「宮仕えの身となり平穏な日々を送ってはおるが、天へ昇る方がもっと良いのではと思っておる。」と言うので、天師が、「昇りたいと思った時が適時です。何を躊躇なさる必要があるでしょうか。」と答えると、徐神翁はそのまま座って亡くなった。帝は天師を召し、「そなたに宮中の物の怪を除いてもらいたいのだが。」と言うので、天師は、「邪な者には正しさを、物の怪には徳を用いるのが良いと聞いております。陛下が徳を修めれば、物の怪は自ずと出ていくでしょう。」と答えた。その時、宮中に物の怪が現れたとの報告があり、程無くして何かに憑り付かれた様子で頭を抱えながら泣き喚く少年がやって来た。天師は、「お前は蒙昧の故に迷いの途へと堕ちたのだ。元の形に返って即座に化するがよい!」と𠮟りつけると、少年は泣き止んで地に倒れ、しばらくして後に息を吹き返した。それ以後、物の怪の騒ぎは収まった。

都で疫病が蔓延した時、天師は数十の大甕に水を貯めて符を入れておき、病人に飲ませて治した。日照りの時に雨乞いの祈祷をすると、雨が三日間降り注いだ。帝が使者を派遣して道の要諦を尋ねると、天師はただ、「神仙の道は学ぶことができ、不死へと至ることができます。」と言い、『大道歌』を作って献上した。

同年(1108)、帝が天師に「太虚大夫」の号を授けようとしたものの、天師が辞退したので御製の詩を賜い、鹽池の蛟の駆除と雨乞いの成功を称え、二十九代天師に「葆真先生」、二十八代天師に「葆光先生」の号を贈り、祖天師に「正一静応真君」の封号を加えた。

その後、天師が龍虎山に帰るので、帝は金と絹を賜ろうとしたが、「私には粗末な衣服があれば十分で、このような賜り物は無用の長物です。」と言って辞退した。道を塞ぐほど集まった見送りの臣下たちに、「集まれば散るのが世の道理であり、人はこの世に生まれ去るもの。皆様はどうか道に励まれますよう!」と別れの挨拶をした。龍虎山に帰った後、弟子たちと共に長江から蜀に入って二十八の治をたどり、しばらくして泰川から帰り、龍虎山の西に渾淪庵を建てて住んだ。龍虎山瓊林台の北に『為愛西源好』の絶句五首がある。

徽宗皇帝の政和二年(1112)、天師は帝に召されたものの病と称して辞退し、代わりに弟子の王道堅を派遣し、徳を修めることで災いは鎮まると伝えた。帝は王道堅に号を授けて「太素大夫」とし、凝神殿で道蔵の校訂を行うよう命じ、また、道法によって国難に対処するよう命じたが、王道堅は国を誤った方向に導くことを懸念し、辞退して龍虎山に帰った。

政和三年(1113)、上清観を改めて「上清正一宮」とした。

政和七年(1117)の一月、帝は道教の五宗旨と五宗師を明らかにして制度化するよう命じ、第四宗として正一道を定めて誠を宗旨とし、祖天師を宗師とした。四月に帝は自らを昊天上帝の太子・青華帝君の兄として「太霄皇帝」と称し、道籙院に命じて「教主道君皇帝」の称号を用いさせた。この称号は道教儀礼に用いる文書での使用に限られ、政務には用いられなかった。

天師は道術で朝廷に名を轟かせていた神霄派の祖師である林霊素・王文卿と密接な交流があった。当時、宮仕えの身であった林霊素は、相手がたとえ宰相や親王であっても談義を嫌い、賓客との接見すら断っていたが、天師だけには門を開いて昼夜を問わず談義に応じた。ある夜、天師と林霊素は帝の宴会に招かれた後、帝の住まいに招かれた。楼閣の下に旧法党への見せしめとして建てられた「元裕姦党の碑」があり、共にお辞儀をして敬意を表した。

徽宗皇帝の重和元年(1118)の十月、帝の生誕を祝う天寧節の三日前、林霊素は帝の祝寿のために大斎醮を建てて帝に参列を勧めた上、夜中頃になると帝の寿命を延ばすために鬱羅蕭台の仙人たちが元始天尊に従って降臨して来るのが見えたというので、帝は斎戒沐浴して親王らと共に参列することにした。殿内には天の香が満ち、仙界の鶴が飛び交い、五色の雲が漂っていた。光の中に楼台と宮殿が現れ、天の兵卒・力士らと仙女・童子たちが幟を持ち、香を捧げ持って楼台を囲み、玉の札に金の文字で「鬱羅蕭台」四字が記されていたが、それが見えたのは林霊素と帝だけであった。十二月に玄武神を祀った時、帝が林霊素に玄武神を見たいと言うと、玄武神がたちまち目の前に現れた。またある時、帝が西王母を見たいと言うので、林霊素が香炉の上に符を焚くと、程無くして西王母が天女たちを率いて雲に乗って降りて来た。帝が教えを乞うと、西王母は、「おおよその事は林霊素様か張天師にお伺いなされば、災いを避けることができるでしょう。」と言った。林霊素はこれを受けて天師に手紙を送り、共に宮仕えして帝を支えるよう勧めたが、龍虎山に帰っていた天師は『答林霊素書』を送り、政治に関わると身に危険が及ぶと諫めた。林霊素は天師の忠告を聞き入れず、翌年、皇太子に対する無礼な振る舞いが問題となって帝から疎まれた。

一方、天師は龍虎山に帰った後も王文卿との交流を続け、『題渾淪庵』などの詩の遣り取りが残されている。以後、悠々自適に暮らし、明け方や夕方に断崖絶壁に座って歌い、常に満足な様子であった。ある時は翛然亭の壁に、「赤帝は龍を御し行きて未だ伏せず、姮娥は月を分けて深山に入る」と書き、人々はその意を計りかねた。麻姑山に遊んだ時、斎雲亭で休み、「蓬莱島の海も浅くなって桑畑になるのか!」と嘆いた。宋が金に侵略されることを予期していたのだ。

徽宗皇帝の宣和七年(1125)の十二月、金軍が宋に侵攻して国家が危機に瀕したため、帝は己を罪とする詔を出し、皇太子の趙桓に譲位して欽宗(1126-1127在位)とした。靖康元年(1126)、金軍は開封を攻めた。欽宗と徽宗上皇は赤馬・紅羊の凶兆を思い出し、使者を派遣して天師を召そうとしたが、天師は泗州の天慶観で辞世の頌を作って羽化していた。靖康丙午(1127年)の年の閏十一月二十五日、三十五歳の時であり、二十七年に渡る在位であった。開封が金軍に制圧されて北宋が滅亡した日でもあった。

天師は結婚しなかったので子が無く、弟の張淵宗が道士となり仮の形で教団を継いだ。『伝天師与弟青詞』の著作がある。後に、泗州に遊んでいた天師から予め印・剣・経籙を託されていた叔父の張時脩が、一族に推される形で三十一代天師として教団を継いだ。

紹興十年(1140)、高宗皇帝は宮中の中観堂に天師を称える像を建てた。

紹興十一年(1141)、西河の薩守堅が天師の評判を聞いて足跡を辿っていたところ、青城山の谷間で天師と出会ったが薩守堅には分からなかった。天師は彼に符法、呪棗術と『水調歌』一曲、並びに書一冊と赤い舃の片方を授け、三十二代天師に渡すよう告げた。三十二代天師が書を開くと、正に天師の親書であったので、天師の墓から棺を出して開けてみると、赤い舃のもう片方が入っているだけで遺体が無かった。その後、武夷山・羅浮山や西蜀などの至る所で、天師の姿を目撃したという者が後を絶たなかった。

天師は博学で多くの著作を成した。『明真破妄章頌』に加え、第四十三代天師が編纂した『三十代天師虚靖真君語録』が伝わり、中でも『心説』『大道歌』『虚空歌』は最もよく知られている。琴・囲碁・書道に長けており、『宣和御製化道文碑』に揮毫し、時の人はその技巧を称えた。詩文も素晴らしく、徽宗皇帝と詩歌を交わした程で、宋代の詩歌選集に天師の詩歌が収められ、自作の詞牌『雪夜漁舟』がある。

天師の霊威は並外れており、道術は人々を感嘆させ、祖天師の生まれ変わりであると称された。後世に至るまで崇敬を受け、『虚靖天師誥』は日常の科儀に用いられている。地祇の法を作って盧養浩らに伝授し、上清無極の隠文『骨髄霊文』九符を編纂し、『混元一炁八卦洞神天医五雷大法』は天師を祖師の一人と認め、天師の作として「洞神後序」を収めている。さらに『東定張元帥専司考召法』も天師を主法の祖師と認めている。他にも天師が作った祈祷法『張虚靖璇機法』はよく知られている。後の龍虎山三派三十六院の中で、天師の道法に重きを置く虚靖派には十一院が属し、中でも三華院は最も有名である。三華院の弟子である呉真陽は四明山に隠居して天師の道法を盛んにした。他にも弟子として李徳光などがある。